日本人が多く住んでいる地域、パラグアイの
イグアスで、日本人の移住の歴史について
話を聞いてきました。
ここではペンション園田(宿)のオーナー
園田さんが「移住資料館」を運営されていて、
来客者に対して歴史を丁寧に教えてくれる。
ぼくのもっとも知りたかったことは、
「なぜ、日本人がパラグアイにいるのか」。
1950年代、三国同盟戦争がありました。
今の土地の大きさからは信じられないけど
パラグアイがブラジル、アルゼンチン、
ウルグアイの三ヶ国と戦っていたのだ。
おいおい、どう考えたって不利だろうよ、
と思ったら、戦争がおわる1960年には
やっぱり信じられない被害を受けていた。
パラグアイ全人口の半分以上が
戦争によって亡くなったのだと言う。
その多くは、おとなの男性だったため、
全人口の10パーセントしか男性がいない、
ぼくの小学校にあった裁縫クラブみたいな
男の肩身がせまい場になってしまったのだ。
たとえがちょいとおかしいですが続けます。
それは、たーいへんだと、パラグアイが
他の国から人を受け入れた動機はわかった。
じゃあ、日本はなぜパラグアイに行かせたのか?
日本人はなぜパラグアイへ行こうと思ったのか?
が気になってくる。
その頃の日本は、戦争がおわったばかりで
まだまだ食っていくのが苦しい時期。
国は国民を面倒見きれなくなっていたのだ。
国民は仕事がない。困ったなあとなっているとき、
「パラグアイにはいい畑がありますよー」
人がほしいパラグアイが日本に広告をする。
日本は出て行ってほしいもんだから、
「行くなら、土地を買うお金貸しますよー」
と国民に広告をする。
「おっ、そりゃいいや、いっちょ行ってみるか」
となってはるばるパラグアイへ
日本人がやって来たときいうわけだ。
今のようにインターネットもないのだから、
情報も少なく、不安も多かっただろう。
しかし、パラグアイについてみると、
パラグアイの広告と現実は違っていた。
畑はなくて、原生林が広がっているだけ。
自ら斧を使って木を倒し、畑を作っていく。
気の遠くなるような作業を何年も繰り返し、
やっとの思いで収穫に成功をする。
その後、日本人がパラグアイ農業の発展に、
大きく寄与したと言う。
ブラジルに移住された方も多いと
聞いていたので、なぜ移住する場所に
パラグアイを選んだのかを聞いてみた。
ブラジルに行くとしたら、
誰かのもとで働くことになったけど、
パラグアイなら、自分たちのチカラで
土地を耕し、成功することができたのだと。
「それは、パラグアイを選んだ人は、
ロマンチストが多いってことですかねえ?」
とぼくが聞く。
「そうかもしれないなあ」と園田さんが言う。
イグアスでは日本語の看板が立っていたり
日本食を食べることができるたり、
スーパーで日本語の会話が聞こえてきたり、
どこか日本の田舎に来た感覚になる。
イグアスに住むパラグアイ人と目が合うと、
にっこり笑って挨拶をしてくれる。
ここで、日本人が刻んだ歴史と関係が、
この挨拶(信頼)になっているのだろう。
それでは、今日も、明日も、明後日も、いい1日を。
その時代、自分だったら、どんな選択をしていただろう。
このときの場所/パラグアイ イグアス
現在地/フランス リヨン
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