去年のおわりに、自転車屋のおじさんが亡くなった。
家の近くにあった自転車屋のおじさんには、
小さな頃から、お世話になっていて、
パンクになると、いつもおじさんに
修理してもらっていたのを思い出す。

こどもの頃に見たおじさんの手は、
大きくて、ゴツゴツしていて、黒く汚れていた。
パンクで自転車をもっていくと、
水の入った容器にチューブを入れて、
クルクルと回転させながら、
どの場所に穴があいているのかを確認していた。
穴のあいている場所では、泡がブクブクとするのだ。
グローブなんてしないでやるから、
手や爪が、真っ黒になる。
「こうやってパンク修理するんだあ」と
こどもの頃は丸椅子に座りながら見ていた。

仕事をはじめると、自転車に乗る機会も少なくなり、
それと並行して、おじさんにお世話になる機会も減った。
それでも犬の散歩をするときに、お店の横を通るのだが、
お店が開いているときは、必ず挨拶をしていた。
何を話すでもなく、
お店の奥でテレビを観ているおじさんに、
ぼくが「こんにちは」と言うと、
少しうれしそうな顔で「こんにちは」と返ってきた。
よるに、ぼくが「こんばんは」と言うと、
誰だ?ああ、あの子か「こんばんは」と返してくれた。
それ以外のコミュニケーションは何もない、
ただの挨拶だ。

でも、おじさんが亡くなって、
お店のシャッターに「閉店します 店主」の
張り紙がされた。
開かないシャターが当たり前になってきて、
そのただの挨拶が、
ただの挨拶ではないことに気がつく。
ぼくは、見守られていたんだ。
小さな頃から、ずっとね。

おじさん、ありがとう。

会えなくなることで、
そんな小さなありがたいことに気がつくのだ。
人間っていうやつは、もう。

今日も、明日も、明後日も、いい1日を。
おじさん、お元気で。またどこかで。