今週は、勝手に永六輔さんWEEKというとで、
著書『変じゃありませんか?』の「あとがき」から、
コトバをお借りして、いろいろと考えてみたいと思います。

変だと思うのは、人それぞれである。
ぼくが変だと思ったからといって、誰もが変だと思うわけではない。
変だと思うことが、変な場合だってある。
みんなで変なことを、変だと言えることが民主主義なのだ。
お隣の国でも、どうも変なことが多い。
小さな変、でも、大きな変でも、変であることに間違いはない。
身体の中の変なことも、国際情勢の変なことも、
国際情勢の変なことも、見つけるだけでは見つけておきたい。
ただ、変だから、直そうとは思うまい。
変なままでいいものは、変なままでにしておけば、その方が楽しい。
「正しくしよう」とは絶対に言わない。
長い間、変なものを、いきなり正しくしようとすると必ず無理になる。
少しずつ、変なものを楽しみながら、納得のいくようにしてゆけばいいのである。
世の中には、変だからこそ存在するというものもあるのである。
その点を、よくご理解の上・・・、なんてあらためていうのは、変だと思いませんか?

突然ですが、
戦争や争いが起きるのはなぜだと思いますか?
土地だとか、資源だとか、女性だとか、
いろいろと原因はあるとは思います。

ぼくは、争いをする両者どちらも
自分たちが「正しい」と主張しているからだと思います。
「正しい」と「正しい」のぶつかり合い。
現実の世界では、映画やドラマのような
わかりやすい「正義」と「悪党」の関係ではなく、
どちらも自分が「正義」だと思っているのです。
「正義」と「正義」のぶつかり合いが、戦争や争いなのです。

戦争はありがたいことに体験したことないですけど、
学校のケンカなんかを見ていても、
そんなことを思っていました。

「変」っていうのも、同じです。
「肌が黒いなんて変じゃないか」
「肌が白いなんて変じゃないか」
「肌が黄色いなんて変じゃないか」
「変」と「変」です。

ぼくたちは違っているのですから、
どうせなら、そのお互いの「変」を
おもしろがれたらいいですよね。
人や自然や未来に迷惑のかかる「変」は、
少しづつ変えていったほうがいいとは思いますが。

それでは、今日も、明日も、明後日も、いい1日を。
「変」を変えようとするのは「正義」のはじまりです。気をつけよう。