『千両蜜柑(せんりょうみかん)』という
古典落語の演目があります。
文化デジタルライブラリーによると、こんな噺です。
今と違いみかんは冬場だけのもので、
夏には出回っていなかった時代のことです。
大金持ちの商店の若旦那が、
真夏にみかんが食べたくなって寝込んでしまいました。
そそっかしい番頭は、
すぐに買ってきますと安請け合いをします。
大旦那は「ぬか喜びをした息子がみかんを
食べられないと知ったら死んでしまうだろう。
そうなったらお前は主人を殺した罪で、はりつけになる」
と番頭に詰め寄ります。
びっくりした番頭は江戸中を
まわってみかん問屋を探し出します。
土蔵の中に山積みになったみかんの箱の中から、
腐っていないみかんを1つだけ見つけた
みかん問屋の番頭は1000両の値をつけます。
「みかん問屋は夏場であってもみかんがないとは言えません。
そのために何千、何万のみかんを無駄にしても、
みかんを保存しています。1000両の値が決して高い
とは思いません」と番頭は語ります。
大旦那は息子の命が1000両で買えるならと、
すぐにそのみかんを手に入れます。
若旦那は10袋のうち7袋を食べ、
残りを両親と番頭に食べてもらいたいと言います。
みかん3袋を渡された番頭は
「来年、のれん分けをしてもらう時にもらえる金は
せいぜい30両か50両。この3袋で300両になる」
とつぶやき、みかん3袋を持って逃げ出します。
おもしろいですよね。登場人物4人ともおかしい。
真夏にみかんが食べたくなって寝込んだ若旦那。
1000両でみかんを売るみかん問屋の番頭。
息子のためにみかんを1000両で買う大旦那。
のれん分けよりも、みかん3袋を選んだ番頭。
オチとなるのは、みかん3袋に価値があると思って、
のれん分けを棒にふって、ドロンした番頭。
この噺から学べることは、いくつもあるのですが、
笑いが起きる大前提としての
皮も含めて、みかんの価値となることは、
1つの学びではないでしょうか。
どんなに素晴らしいものでも、
パッケージも含めて価値となる。
コーヒーは、器があって価値となる。
どんな素晴らしい歌手でも、
観客の盛り上がりも含めていいライブになる。
でもね、この噺の続きとして、
みかん3袋を使って、アイデア次第で
みかん大福をつくることだってできると思うんです。
3袋そのままでは価値がなくても、
まるごと大福にすれば価値になる・・・かも。
今日も、明日も、明後日も、いい日でありますように。
みんな人間らしくて、おもしろい。みんなバカにできません。