今週は、『勝手に梅棹忠夫さんWEEK』というとで、
小長谷有紀さんが編集した『梅棹忠夫のことば』から、
コトバをお借りして、いろいろと考えてみたいと思います。

相手に触発されて、おもいがけないことをしゃべってしまう。その新鮮な感動が、対談や座談会に出席することの魅力なのである。もっとも、おもいもかけないといったが、まったく無から有がでてくるわけではない。じつは、日ごろ研究室でわかい研究者たちを相手に、討論したり雑談したりしているなかに、断片的にはでてきているのである。それが、対談中に、突如としてひとつのコンテキストにはめこまれて、意味あるものとしてたちあらわれてくるのである。あるいは、その思想は、過飽和溶液のなかになにか核になるものをひとつほうりこめば、たちまち結晶が成長しはじめるように、無意識のうちに発言の準備ができていたものなのである。対話は、無意識のものを意識にのぼらせるためのスターターになるのである。

以前、「都合のわるい、いい質問」について
書きましたが、この梅棹さんのコトバは、
「問い」のクリエイティビティを教えてくれます。

ひとは思いがけない、いい質問をされると、
自分でもコトバにできていないことを、
偶然コトバにできることがある。
コトバにできていないコトバとは、
モヤモヤと空気のように、そこにあるんだけど、
はっきりとつかめていないコトバです。
その空気のようなものが、
いい質問によって、液体化され、見えるようになる。

でも、「問い」の弱点は、
なにも思ったり、考えたりしていないひとには、
なんの化学反応も起きないということ。

サッカーで練習をしていないフォワードに、
いいパスが来てもシュートを決めることができません。
練習をして、準備しているフォワードに、
いいパスが通ったときに、
シュートを決めることができるのです。

対談は、いつも考え、行動しているひと同士だと、
よりいっそうおもしろくなります。

それでは、今日も、明日も、明後日も、いい1日を。
化学反応のための準備ですね。